導流堤
更新日:2021年01月26日
筑後川は汽車や自動車などの陸上交通が発達していなかった頃、交通の大動脈として重要な役割を果たしていました。江戸時代に、その河口に造られた若津港は、鹿児島本線や長崎本線が開通する前は筑後平野第一の河川港でした。
有明海は干満の差が約6メートルと大きく、筑後川河口は土砂が堆積しやすいため、船舶の航行が妨げられることが多くありました。そこで航路を確保するため、明治16年(1883)に明治政府がオランダ人技師のヨハニス デ レイケを派遣し、筑後川の調査をさせました。石黒五十二ら日本人技術者がデ レイケの指導のもと筑後川改修の立案と設計を行い、明治23年(1890)に約6キロメートルにわたる導流堤が完成しました。
導流堤は、潮が満ちているときには筑後川に沈むため見えませんが、引き潮になるにつれて姿を現します。地元では「ちんしょう(沈礁)」と呼ばれています。この導流堤のおかげで川の流れを速め、堆積する土砂を遠浅の河口に押し流すことで、航路を維持することが可能になりました。導流堤の完成から100年以上経った現在も、その役割を果たしています。
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