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旧吉原家住宅について

更新日:2020年06月09日

ベタベタクッゾコ(藩境キャラクター)
べたべたくっぞこ.jpg 国指定重要文化財の旧吉原家住宅について紹介するよ!

建物について

女の子.png 旧吉原家住宅ってなあに?

べたべたくっぞこ.jpg 大川市の小保(こぼ)にある旧吉原家(きゅうよしはらけ)住宅は、柳河藩小保町の別当(べっとう)職を代々務めた吉原家のお屋敷だよ。
 別当っていうのは町の行政的支配者、今でいう町長さんのことだね。村の場合は別当ではなく庄屋が置かれたんだよ。いわゆる村長さんだね。そして、その別当や庄屋をつかさどるのが大庄屋(おおじょうや)。大庄屋は支配している地域内の軽い訴訟の処理をしたり、年貢や建築・土木工事などを監査したりして、その地域のすべてを取り仕切っていたんだ。普通は武士以外が苗字を言うことは許されていなかったけれど、大庄屋は苗字を名乗ることや刀を腰につけること(帯刀)が許されていて、給料として約70俵の米をもらっていたんだよ。
 柳河藩では、藩内にある村をいくつかにまとめたものを組といって、吉原家はこの蒲池組の大庄屋にもなったんだよ。蒲池組は柳河藩の組の一つで、約10の村で構成されていたよ。
柳河藩の支配構造.png
男の子.png このお屋敷はいつ建てられたの?
べたべたくっぞこ.jpg 旧吉原家住宅は文政8年(1825)に建築されたと考えられているよ。なぜそれが分かったのかというと、主屋(おもや)の式台(しきだい)玄関の蟇股(かえるまた)(注1)に墨書が残っていたから。200年くらい前の江戸時代に建てられた建物で、藩の公用に利用されていたんだよ。建物が大規模で、内部の形や模様などは細かいところまで工夫が凝らされていること、また建てられた年代が確実で九州でも特に重要な建造物として、平成11年に国の重要文化財に指定されたよ。
注1)蟇股: 梁(はり)などの横材の上にあって、上方の重さを支える部材。カエルが足を開いたような形をしている。
式台玄関.jpg 旧吉原家住宅の式台玄関
蟇股 蟇股墨書.jpg 式台玄関の梁の上にある蟇股。普段は見えない上部に「文政八年」と書かれていた。


女の子.png 旧吉原家住宅には、どうして門が2つあるの?
べたべたくっぞこ.jpg 御成門(おなりもん)と通用門だね。2つの門は、それぞれ使う人が違っていたんだよ。
 御成門
御成門.jpg
 御成門は、天保9年(1838)に幕府からやってきた巡検使(じゅんけんし)の宿泊のために新しく造られた門で、幕府や藩の役人など、特別なお客様以外は使用ができなかったんだよ。

 通用門
通用門.jpg
 御成門は特別な人しか使えなかったから、普段はこの通用門を使用していたんだ。以前は門から中の蔵に荷車で米を運ぶために銀波石(ぎんぱいし)という敷石が敷かれていたそうだよ。

男の子.png 旧吉原家住宅の中はどんなつくりなの?
べたべたくっぞこ.jpg 式台玄関から入ると八畳の広い玄関間があるよ。玄関間の天井は3メートルもの高さがあるのだけど、昔は天井が高いほど格式が高かったそうだから、旧吉原家住宅も格式高いつくりであることがわかるね。玄関間の西側は三間が続く広い部屋となっているよ。こちらは柳河藩の公用の間として使用された部屋なんだ。主に京都北山杉が使われているよ。
 「上の間」(写真一番奥の部屋)は格式が最も高い部屋だよ。天井は長さ二間(3.6メートル)の一枚板を数枚並べた平天井で、鏡張りとも呼ばれるよ。「次の間」と「三の間」は天井に杉の磨き丸太を使った竿縁天井(さおぶちてんじょう)で、「次の間」の床の間の脇にある棚は上部が細い挾間花灯窓(はさまかとうまど)とよばれる窓と三角形の地袋天板で構成されたおしゃれなつくりになっているよ。
 柱と柱をつなぐ長押に打ってある釘の頭には、釘隠しと呼ばれる飾り金具が被せられているよ。上の間の釘隠しは扇形、次の間・三の間の釘隠しは桃形の半立体の繊細なデザインとなっているよ。

内観.jpg
  
 

  • 釘隠し(扇).jpg

    上の間の釘隠し(扇形)

  • 釘隠し(桃).png

    次の間と三の間の釘隠し(桃形)

 

 
 玄関間の北側の母屋の棟は吉原家の生活の場だったところだよ。田の字型を基本としたつくりで、公用の間より天井が20センチメートルほど低くなっているよ。旧吉原家住宅の母屋は、梁(はり)や天井板などに大きくてしっかりした楠材を使用した、豪快な木組のつくりが特徴だよ。
 
整型四間取り.jpg

女の子.png 旧吉原家住宅の玄関でこんなものを見つけたよ。これはなあに? 埋木(軍配).jpg
べたべたくっぞこ.jpg これは埋木細工(うめきざいく)というものだよ。木の割れや節穴などを補修するために木片を入れることを埋木というんだ。埋木細工は腕のいい大工さんが粋な心づかいで手を加えたものだよ。相撲の軍配(ぐんばい)の形にしたのは、行司(ぎょうじ)が勝者に軍配をあげることから、運気が上がるようにと願いを込めたものといわれているよ。また、吉原家のご当主が相撲好きだったからという説もあるよ。旧吉原家住宅には、この他にもあちらこちらに埋木細工があるから、探してみてね。
埋木(軍配).jpg 埋木(桃).jpg 埋木(小槌).png 埋木(魚).png
男の子.png 軒先の木の飾りは何かな?
持ち送り.jpg

べたべたくっぞこ.jpg 細かいところに気がついたね。
 これは持ち送りといって、壁や柱に取り付けて、その上に張り出した梁(はり)や庇(ひさし)を支えるものだよ。旧吉原家住宅には持ち送りがいくつかあって、彫られている模様は少しずつ異なっているよ。

 

旧吉原家住宅の神棚

神棚.png
 
女の子.png すごく立派な神棚があるけど、いつのもので誰が作ったの?
べたべたくっぞこ.jpg
 この神棚のに明治34年、黒田多吉(くろだたきち)と書いてある墨書があるよ。黒田多吉は当時、小保町で有名な大工の棟梁(とうりょう)で、旧吉原家住宅にある蔵も作ったんだよ。神棚を置くための作り付けの箪笥(たんす)の材料はケヤキで出来ているよ。
         黒田多吉.png    明治34年.png   


旧吉原家住宅の刀箪笥

刀箪笥.jpg

女の子.png この箪笥は何?
べたべたくっぞこ.jpg これは主屋を建てた吉原三郎左衛門(よしはらさぶろうざえもん)の父、正右衛門(しょうえもん)が文化14年(1817)12月15日に江戸(東京)の小伝馬町で購入した刀箪笥だよ。その2年前の文化12年(1815)に鐘ヶ江村(現在の大川市三又地区)の漁師5人が筑後川河口で漁をしていたとき、肥前(現在の佐賀県)の海の取り締まりを行う役人から殺害されるという怖い事件があったんだ。鐘ヶ江事件といわれているよ。この事件は久留米藩と佐賀藩の漁場争いからはじまって、5年間も争っていたんだ。江戸幕府が柳河藩に仲介を依頼して一件落着となったんだけど、このとき正右衛門は参考人として上京したんだ。このときの手柄で正右衛門は武士身分に昇格して、刀箪笥が必要となったから、泊まっていた場所の近くの小伝馬町にある箪笥屋からこの刀箪笥を購入したと考えられているよ。

飛脚の胸当てと吉原家の裃

男の子.png これは何に使ったの? 飛脚の胸当て.jpg
べたべたくっぞこ.jpg これは飛脚(ひきゃく)が着用していた胸当てだよ。飛脚というのは、書類や金銀などを配達する人のことで、現代でいえば宅配便やバイク便などのことだね。写真の胸当ては吉原家の飛脚であることを示すため、吉原家の御紋(ごもん)があしらわれているよ。ちなみに柳川までの距離は約4.2キロメートルあったんだ。
 下の写真は吉原家の裃(かみしも)と柳河藩のお殿様からいただいた裃だよ。裃とは江戸時代の武士の礼装・正装のことだよ。旧吉原家住宅の資料館に展示されているから見てみてね。江戸時代の人は小柄だったことがわかるよ。
裃.png  

 旧吉原家住宅の昔の道具たち

男の子.png この箱は何に使うもの?  箱膳.png

べたべたくっぞこ.jpg これは箱膳(はこぜん)という名前で春慶(しゅんけい)塗りという漆(うるし)塗りの箱型のお膳だよ。
 日頃は食器を入れている箱で、普段の食事のときに箱の上蓋を裏返しにして食器を並べ膳として使っていたんだよ。茶わんや箸(はし)は引き出しにしまうようになっているよ。食事が終わったら、布巾(ふきん)できれいにふいてしまうんだ。1人に1つお膳を持っていたんだよ。子どものお食い初めの時に箱膳を買ってそろえて、お嫁に行く時は,必ず持って行くものだったんだ。箱膳は囲炉裏(いろり)をかこんで食事をしてきた古い時代から長い時代を通して続いてきた習慣だったんだよ。
箱膳引き出し.png    
 
  
本膳

    本膳お客様用.png
 
 杉の木箱に入っていた輪島(わじま)塗りという漆塗りのお膳。お祝いの来客用の食事に使われ、江戸時代から明治・大正期にかけて使用されました。
女の子.png 昔の人たちは、畳や板の間に直接お膳を置いて食事をしていたの?
べたべたくっぞこ.jpg 昔の日本にはテーブルがなかったからね。
 昭和初期の家族のだんらんを象徴するシンボルとして取り上げられるちゃぶ台は明治20年ごろから使用されるようになったんだよ。今みたいなダイニングテーブルとイスは昭和35年ごろから使われるようになったのさ。


男の子.png この変わっている箱は何? 提げ重.png

べたべたくっぞこ.jpg これは「提げ重(さげじゅう)」という重箱だよ。重箱っていうのは、料理をつめる箱で、2段や3段に重ねられるようになっているよ。おせち料理をつめてあるのを見たことがあるかな?
 その重箱を持ち歩けるように工夫したものが提げ重だよ。4、5人分のお皿やお酒の器、おつまみを入れる重箱などを持ち運びできるように、持ち手のついた箱の中におさめたものだよ。花見重、野弁当とも呼ばれていて、観劇やお花見、紅葉狩り、お月見、夕涼みなど四季折々のレジャーのときに活躍し、江戸時代から大正時代に使われていたんだ。
 吉原家の提げ重は、漆塗りで金の蒔絵(まきえ)(注1)がほどこされているよ。
注1)蒔絵:器の表面に漆で絵や文様、文字などを描き、それが乾かないうちに金や銀などの金属粉をまいてしっかりくっつけ磨いたもの。

女の子.png 
この箱も重箱? 栄え重.png

べたべたくっぞこ.jpg これは「栄え重(さかえじゅう)」という重箱だよ。大小二つの組み合わせで、春慶(しゅんけい)塗り、吉原家の家紋が描いてあるよ。「誕生餅」や「お赤飯」、葬式、法事の際の餅饅頭などを近所にお裾分けするときに用いられ、江戸末期から大正期にかけて使われていたものだよ。大きな箱の中に一まわり小さな箱を順々に入れていく「入れ子」になっていて、三段とか五段のものもあるよ。
    
 
  つりこショウケ
 つりこショウケ.jpg


 べたべたくっぞこ.jpg これは「つりこショウケ」という道具で、飯籠(めしかご)とも呼ばれるよ。気温や湿度が高い梅雨から夏の時期は、朝炊いたご飯をそのまま釜や鍋に入れておくと傷んでしまうため、籠に移して軒先につり下げだり、日陰の風通しのよい所に置いたりしていたんだ。竹が余分な水気を吸い、編み目が風を通すから、傷みを防ぐことができたんだね。今みたいに保温器や冷蔵庫がなかった時代には、夏の必需品で、地方によって色々な形があったんだよ。
男の子.png この丸い木おけは? 飯櫃.jpg
べたべたくっぞこ.jpg これはスギ材で作られた飯櫃(めしびつ)だよ。昔は炊飯器がなかったので、羽釜(はがま)でご飯を炊いて、炊きあがったご飯をお櫃(ひつ)に入れて保存していたんだ。木のお櫃に入れることで、湯気を木が吸い取るので、ご飯がベタベタにならないよ。保温はできないので冷めてしまうけれど、材料にヒノキ、スギ、サワラを使うことで、木の香りがしておいしいご飯になったのさ。

女の子.png わらでできた、この入れ物は何? 飯櫃入れ
べたべたくっぞこ.jpg これは「イグリ(飯櫃入れ)」といって、ご飯を入れた飯櫃を入れておくものだよ。冬の寒い時期には稲わらで作ったこの入れ物に飯櫃ごと入れて保温していたよ。夏はつりこショウケ、冬はイグリを使っていたんだね。飯櫃入れは地方によって「飯つぐら」「わらいずみ」など色々な呼び名があるよ。

このページに関する問い合わせ先

教育委員会 生涯学習課 旧吉原家住宅
直通電話:0944-86-8333
ファクス番号:0944-86-8333

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